僕は今までに3回、がんに罹患しました。再発や転移ではなく、すべて原発性のものです。最初は左肺がんでステージ2b、告知を受けたのは2011年4月のことでした。
当時は東京に住む家族と離れて札幌に単身赴任していました。一人暮らしですので不規則な食事、接待での飲食や麻雀も多く、仕事のストレスもあり不摂生な生活が続いていました。
ヘビースモーカーでもあったため変な咳をしたり、顔色も悪かったりと、職場の仲間からは「どこか悪いのでは?検査受けた方が良いよ」とすすめられることも。心の何処かにひっかかるものがありつつも、僕はその助言を聞き流していました。
人間ドックで肺がんの疑い。家族にも言い出せなかった
2010年6月、会社の健康診断を受けました。そのときは医師から「肺気腫になるからタバコは止めるように」と忠告される程度。禁止されたわけではないので気にすることなく、ずっとタバコは吸い続けていました。
そして同じ年の10月に受けた人間ドックの肺のレントゲンで再検査を受けるよう言われました。
年末辺りからは仕事中もずっと咳が止まらず、職場の仲間にはだいぶ心配をかけていたようです。私も止まらない咳が気になってきたので重い腰をあげて病院へ。気づけば翌年になっており、初診を受けたのは2011年3月9日でした。その時の検査で医師からストレートに「あなたがんかもしれない」と告げられたんです。
さらに詳しく調べるため、2日後の3月11日に再度検査を受診。検査結果はすぐに出て、医師から左の肺がんの告知を受けました。ちょうどその日、東日本大震災の大きな揺れを病院で体験して、僕にとって忘れられない日となりました。
東京の病院で細胞診の検査を受ける。家族には最低限の情報しか伝えなかった
今後の手術による入院などを考慮し、家族が住む東京の病院で詳しい検査を受けた方がいいだろうと担当医師が判断。都内の病院で細胞診を受けることになりました。検査前日、自宅に戻った私は「どうも、俺、がんらしいわ。明日は検査に行ってくるから」と肺がんであることを初めて家族に伝えました。そのときは、他には一切会話をせず自室に戻りました。家族にあまり心配をかけたくなかったんです。
がんの告知を受ける。医師からの説明を聞くだけで精一杯だった
細胞診の検査結果は4月5日に分かりました。僕はただ、淡々と医師からの説明を聞いているような状態でした。それだけ心に余裕がなかったのだと思います。
検査が終わってすぐ、仕事の都合で単身赴任先の札幌へ戻ることに。戻るまでの間にあまり時間がなかったため、家族とがんについてじっくり話をする機会はありませんでした。しかしどちらかというと話す時間を作りたくなかったのかもしれません。これは自分が話したくなかったというよりも、あくまで妻に対する僕なりの気遣い。親しい友人を乳がんで亡くしたばかりの妻に、そのときのことを思い出させては申し訳ない、余計な心配はかけたくないと思ったんです。ですが後々、これが大きな間違いであったことがわかりました。
がんであることに折り合いをつけるために、「人生50年」という言葉を意識した
今考えるとあの頃は、まだ自分ががんであるという事実をうまく受け入れられていませんでした。がんの告知を受けたときも「ああ、俺はがんなんだ…」と思ったぐらいで、それによって取り乱すことは特になかったです。まさか自分ががんだなんて…と強いショックを受けていたとは思うのですが、それをどう受け止めて消化すればいいのかわからず、無意識に気持ちに蓋をすることで辛さを感じないようにしてしまいました。
当時の僕にとって、がんという病気は死を連想させるものでした。告知を受けたときは49歳、織田信長の「人生50年」という言葉を強烈に意識することで、自分の心になんとか折り合いをつけようとしたのです。信長の言葉を思い出すことで、昔だったら50年で死んでいてもおかしくないんだよなと、無理に自分を納得させていました。
このとき、自分の深い悲しみや絶望、やり場のない怒りなどマイナスの感情を全部吐き出しておけばよかったと今では思います。無理に感情を押し込めたことが、後に適応障害を発症することにつながったのではないかと思います。
職場のメンバー全員に肺がんであることを伝える
当時は営業部門に所属し、札幌の支社の副支社長で、管理職の立場でした。がんとわかったタイミングで、手術や抗がん剤治療が始まることなど今後の治療について職場の上司にすべて報告しました。上司からは治療に専念して欲しいと告げられ、ありがたいことに家族のいる東京への異動が決まり、体になるべく負担がかからないようにとデスクワーク中心の部署に配属となりました。取引先への挨拶回りなど引継ぎ業務も発生するため、支社内のメンバーにはがんであることを朝礼で報告。東京へ戻る準備を進めていきました。